持久的辮証法

─毛主席

 

「私はマオイストではない」。

ジャン=ポール・サルトル『フランスにおけるマオイスト』

 

 

二〇〇一年一〇月七日、ジョージ・W・ブッシュ大統領は、全米に向けたテレビ演説において、次のように語っている。

 

私の命令の下、米軍はアルカイダのテロリスト訓練キャンプとアフガニスタン・タリバン政権の軍事関連施設に対する攻撃を開始した。対象を慎重に選択した今回の攻撃の目的は、テロリストの基地機能を崩壊させるため、およびタリバン政権の軍事力をたたくためのものだ。

 

米国はアフガニスタン市民の友人だ。そして世界各国に散らばる約十億人のイスラムの教えを信仰する人々にとっての友人でもある。しかしテロリストの支援者や、教義に基づくと称して殺人を犯し、偉大なイスラム教を汚す野蛮な犯罪者にとっては敵となる。

この軍事行動は、われわれの反テロキャンペーンの一環にすぎない。外交、情報収集、テロ組織の資産凍結、三十八カ国でのテロリストの逮捕など、他の分野での戦いは既に始まっている。

われわれは忍耐強く成功を重ね、この戦いに勝つ。今日の焦点はアフガニスタンだが、戦いはより広範囲となる。どの国にも選択の権利はあるが、この戦いには中立という立場は許されない。無法者、罪のない人々を殺す者を支援する国は、それらの者と同罪で、極めて危険な孤立への道を歩むことになるだろう。

 

現代の戦いは、確かに、「キャンペーン」である。しかし、本来、ゲリラの挑む戦いこそがキャンペーンであり、正規軍はただそれに巻きこまれるだけにすぎない。毛沢東は、『持久戦論』の中で、ゲリラと民衆の関係を「魚と水」の関係に喩え、ゲリラ戦がその関係を持続しつつ、敵の力を弱めていく「持久戦」、すなわちキャンペーンであると指摘している。「優勢でも準備がなければ、真の優勢ではなく、主動性もない。この点が理解できれば、劣勢でも準備のある軍隊は、つねに、優勢な相手を敗北させるため、敵に対して不意の攻撃を企ててよい」(毛沢東『持久戦論』)

 

 

“They misunderestimated me”.

(George W. Bush)

 

 

“I’ve coined new words, like, ‘misunderstanding’ and Hispanically”.

(George W. Bush)

 

 

 中国は、「眠れる獅子」と呼ばれた清朝末期から、一世紀に渡って、乱れ続ける。腐敗した行政機構や外国からの干渉、勃興する各地の軍閥、疲弊する経済によって、中国はたんなる地理的な地域にすぎない状態にまで陥る。その事態を収拾したのは「ラスト・エンペラー(The Last Emperor)」溥儀ではなく、「中国の赤い星(Red Star Over China)」毛沢東である。彼は、中国共産党の下、混乱の中国を一つの国にまとめあげる。これは秦の始皇帝以来の事業である。

 この毛沢東率いる紅軍は、一九三四年から二年間、河北省瑞金から黄土高原までの一万二五〇〇キロを国民党軍と戦い、革命の必要性を民衆に訴えながら、移動する。そのおよそ三〇年後の一九六六年、毛沢東の「司令部を砲撃せよ」から始まった「文化大革命」は世界を震撼させる。「大長征」と「文化大革命」の二つの出来事はファースト・エンペラーにもできなかったことである。

 

 

An early photograph

Of the young brave with a confident grin

Who is celebrating his first defeat

By clutching a hair cut from his skill

A pigtail…

 

Enter the modern man

Like a young brave with a price on his head

“Delilah,” said Samson

“Stick this up yours!”

The symbol is clear

Cut from his skill

The long hair…

 

Is this the missing link?

The dreaded locks kept him bound to remain

Unable to avoid to the sacrifice

The shock back and sides…

The closest shave…

The pigtail…

 

Remember how it’s done

First must you think it, but then you’ve begun

Seemingly retreating

The coiling spring…

Is triggered to leap…

Farther ahead…

The long march…

(Robert Wyatt “Chairman Mao”)

 

 

一九三四年一〇月二日、河西省瑞金の中国共産党中央は、国民党軍の包囲網を突破し、西方への脱出を決定する。一〇月一六日、紅軍は作戦を開始する。戦闘員八万五〇〇〇人、非戦闘員一万五〇〇〇人が移動し始める。一〇月一八日には、マラリアあがりの毛沢東もこれに合流する。「大長征」の始まりである。

一九三三年一〇月、国民党を率いる蒋介石は、一〇〇万人の兵力を動員し、共産党軍に対する第五回目の「囲剿」、すなわち包囲討伐戦を決行する。国民党軍は、軍事顧問ハンス・フォン・ゼークトの進言により、共産党の支配地域であるソヴィエト区を厳重に装備したトーチカで囲み、それを軍用道路でつなぎ、上空から飛行機によって偵察し、軍事的・経済的に完全な包囲を敷いた上で、その包囲網をじわじわと狭めていく作戦をとっている。この作戦が極めて効果劫だったため、翌年の春には、共産党軍の敗北は決定的になり、もはや脱出するほか選択肢はないと共産党の指導部も認めざるを得なくなっている。

一九三五年一月、西進する中、遵義会議で、従来の指導層が西遷に至った責任を糾弾され、毛沢東が名実共に共産党と紅軍の全権を掌握する。一九二七年、すでに毛沢東は井岡山に軍事・政治・革命を結合した中華ソヴィエト共和国臨時政府を樹立し、「主席」に就任していても、指導権が確定していたわけではない。

この会議において、国民党軍の追跡や待ち伏せを回避するために行われていた西への移動の基本的方針が「北上抗日」と選択され、進軍途上での宣伝活動の強化が養成される。毛沢東は、その際、根拠地理論を展開している。「革命根拠地は、みずからが空間的にその行動の限界を定めるときには、それは単なる軍事根拠地としての役割しか果たさない。しかしその革命根拠地は、いったんその空間的限界を突き破って動的な存在を開始するとき、その影響力は爆発的に拡大する」(宇野重昭『毛沢東』)。根拠地理論は、数学的には、包除原理であり、根拠地はルック多項式として理解できる。紅軍は、進軍する際、土地革命の必要性を説き、民衆大会を開き、その地域の赤衛隊幹部を養成していく。「西遷」という惨めな敗走が「長征」という偉大な革命のキャンペーンとなったというわけだ。

毛沢東はさらなる北上を指示し続け、一九三六年一〇月二〇日、毛沢東と紅軍は、とうとう陝西省呉起鎮に到着する。このときの兵員は七〇〇〇人とも八〇〇〇人とも言われている。陝西ソヴィエトを建設中の第一五軍団七〇〇〇人と合流し、大長征はようやく終わる。移動した距離は、実に、一万二五〇〇キロに及ぶ。さらに各地の紅軍が参加し、毛沢東率いる紅軍は延安を中心に解放区を確立していく。

 

 

 第二次世界大戦で、イギリス軍最大の成功は、ダンケルク撤退だそうだ。要はヨーロッパ戦線で負けたから本土に逃げるのがうまかったということだが、負けて逃げたのが成功だったのが粋だ。ガダルカナルで負けたのを転戦といった日本軍と大変な違い。日本だって、秀吉が名をあげたのは湖北の敗走だし、最大の成功は高松城からの撤退だったのに。いつから、勝つばかりがよいことのようになってしまったのだろう。

(森毅『教えてんか』)

 

 

紅軍不怕遠征難,

萬水千山只等閑。

五嶺逶迤騰細浪,

烏蒙磅礴走泥丸。

金沙水拍雲崖暖,

大渡橋鐵索寒。

更喜岷山千里雪,

三軍過後盡開顏。

(毛沢東『長征』)

 

 

みんな一緒に

ニンニキニキニキニン

「まあこのォ」

西にはあるんだ

夢の国ンニキニン

ゴーゴーウェスト

ニンニキニキニキニンニンニン

あいつもこいつも

そいつもどいつも

西へ向うぞ

ニンニキニキニキニン

 

ニンニキニキニキ

ニンニキニキニキ

ニンニキニキニキニンニンニン

(ザ・ドリフターズ『ゴーウェスト』)

 

 

 「大長征」の成功は紅軍が民衆と「魚と水」の関係を結ぶことができたからであるが、それは宣伝に対する認識が国民党よりも高いことに起因する。「革命戦争は民衆の戦争である。民衆を動員して、初めて戦争を進めることができる。民衆の能力によって、初めて戦争を進めることができる」(毛沢東『民衆の生活に関心を寄せ、活動方法に注意せよ』)。一九四七年、当初優勢だった国民党との内戦に勝利を収め、毛沢東が中華人民共和国の成立を宣言できたのも、「三大規律・八頭注意」や「五・四指示」といったキャンペーンの民衆への浸透に大きくよっている。毛沢東は、民衆の苦しみや悩みを聞き取る「訴苦」運動をアピールするために、紅軍を「人民解放軍」に改称している。「この軍隊は人民戦争が必要とする一連の政治活動の体系をつくりあげた。その任務は、わが軍を団結させ、友軍を団結させ、人民を団結させ、敵軍を瓦解させ、戦闘の勝利を保証するために闘争することである」(毛沢東『連合政府論』)

 

 

Your skin white stained sensation

Clinical bodies won’t do

And as we’re pomping, pomping and resisting

Inserting love into you.

 

Communist China

Takes me to heaven

Somebody wrong

We’ll through glass

In your face

Call it new propaganda

Cos we‘ve been waiting for so long.

 

I’ll take you out in the moonlight

Oblique horizon won’t do

The knife in your list

Is breaking up the white walls

Here’s penetration for you.

 

Face to face complication

Personal problems for you

The conversations getting for too vicious

Impersonation won’t do.

(Japan “Communist China)

 

 

 あるいは、吉沢尚明の語録から。若い助手が入試の採点基準の議論で、「専門家の見識で採点基準を」と言ったのに、「大衆の状況を把握できてこそ専門家」と切りかえした。

(森毅『自由を生きる』)

 

 

「男たちが逃げ出した。家庭から、あるいは女から。どっちにしたってステキじゃないか。女達や子供達も、へたなひき止め工作なんかしてる暇があったら、とり残されるより先に逃げたほうがいい。行先なんて知ったことか。とにかく、逃げろや逃げろ、どこまでも、だ。この変化を軽く見てはいけない。それは、一時意的、局所的な現象じゃなく、時代を貫通する大きなトレンドの一つの現われなのだ」(浅田彰『逃走する文明』)。逃走は、「時代を貫通する大きなトレンドの一つの現われ」、すなわち代替案提示のキャンペーンとしての闘争において意義を持つ。歴史上最大の「大脱走」は「大長征」であろう。「大長征」は、その意味で、時代どころか、歴史を「貫徹する大きなトレンド」として、逃走の意義を印象づけている。

 

 

You know about me?

My name is Tong Poo

 

I’m blowing

So far away

Let’s dance

Let’s dance with me

 

Hear me come

There is Tong Poo

Let’s dance

Let’s dance with me

(Yellow Magic Orchestra “Tong Poo)

 

 

革命は、毛沢東が『持久戦論』の中で「革命戦争は抗毒素である。それは敵の毒焔を除くばかりではなく、自分の汚れ洗い清めるだろう」と書いている通り、新たな自己を育むキャンペーンである。たんに自分たちの主張を宣伝するだけではなく、革命が民衆に何をもたらすか、すなわち新たな生活を提案しなければならない。キャンペーンは、それによって、民衆が革命後に陥る認知的不協和、革命そのものや改革の方法に抱く不満や不安を緩衝する役割を果たす場合もある。

毛沢東をレイモンド・ウィリアムズの「長い革命」の先駆者として考えなければならない。政治・経済・文化が複雑に織り成す現代社会における革命は、レイモンド・ウィリアムズによれば、政治革命・経済革命・文化革命を交差させた「長い革命」でなければならない。政治制度の変革である政治革命と経済構造の変換である経済革命に対して、文化革命は生活様式や価値観などの社会全般の革命である。文化革命は既成の倫理への批判となる場合もあれば、急速な社会変化への疑念となる場合もある。ヘルベルト・マルクーゼやヴィルヘルム・ライヒらは産業社会における文化への批判を繰り返している。また、R・イングルハ−トは「静かなる革命」を唱えている。革命は、高度に発展した資本主義社会では、騒々しい大混乱の中から新たな秩序が形成されていく過程ではなく、静かに進行していくパラダイム変換だというわけだ。確かに、「冷戦」構造という概念が示している通り、「クール・メディア」(マーシャル・マクルーハン)の時代では、メディア革命が決定的に重要であり、熱い革命は時代遅れである。「冷たい革命(Cool Revolution)」が望ましい。メディアは政治・経済・文化を大きく変え、人々の生活を包囲する。根拠地をつくりながら、そこから逃走する必要がある。包囲と逃走に基づいた持久の弁証法による「静かなる革命」が必要とされている。軍事的には、包囲戦は第一次世界大戦以前の戦闘のスタイルであって、機関銃が登場したため、塹壕戦が主流となり、戦車が登場した後、過去の遺物となっている。塹壕戦に代えて、ドイツ軍が電撃戦を始めた第二次世界大戦においては、要塞を構築する軍隊は皆無になる。けれども、現代の政治的・経済的・文化的な包囲戦では、要塞のような強固でvisibleな壁があるわけではなく、その包囲がinvisibleである。だからこそ、厄介なのだ。持久の弁証法はじわじわと流れる「拡散項(Diffusive Flux)」と不安定な流れの「対流項(Convective Flux)」の二つの要素がある。革命は、特に文化の面では、冷たく、静かで、長くなるのであって、文化革命は、本来、こうした持久の弁証法から把握すべきである。「物質的生産の発展と、例えば、芸術的生産の発展との不均等な関係。ここで把握されるべき真に困難な点は、どうして生産関係は法的関係に比べて不均等な発展を行うかという点である」(カール・マルクス『経済学批判序説』)

 

 

 持久の弁証法を可能にするのはゲリラである。ゲリラは「定住も遊牧もせず、それらの〈間〉を巡回する。彼がいるのは条理空間でも平滑空間でもなく、その背後にあって無数の隙間をとおし両者と通じあっている有孔空間である。彼にとって、全世界はグリュイェール・チーズのように、あるいはフラクタル立体のように、いたるところ孔だらけなのだ」(浅田彰『リトゥルネッロ』)。ゲリラは世界が「フラクタル立体」であることを顕在化させる。彼らは、敵にはinvisibleな「孔」を見つけ、移動し、出現する。敵は、次第に、物理的にも心理的にも、消耗していく。

 

 

 毛沢東は、活動当初から、ゲリラ戦法を採用している。毛沢東は、一九二一年、上海で中国共産党の創立に参加し、一九二五年、部山に共産党支部を立ち上げる。一九二七年には、井岡山に登り、農民を中心にした共産党軍を挙兵し、ゲリラ戦を開始している。毛沢東は、梁山泊さながらに、匪賊にも声をかけ、軍に引き入れている。この辺は、メキシコ革命における農民ゲリラの指導者ヱミリアーノ・サパタに似ている。Viva Zapata!「敵が攻撃してくれば退却し、敵が駐屯すれば、撹乱し、敵が疲れれば攻撃をかけ、敵が退けば追撃する」(毛沢東『中国革命戦争の戦略問題』)

 

 

 ゲリラ戦法は先に言及した根拠地理論と密接な関係にあるが、野村浩一は、『毛沢東』において、その点について次のように述べている。

 

中国において、根拠地が周りを白色政権に取り囲まれつつ、長期にわたって存続しうるかどうかは、そのそもそもの出発点に於いて、解答をせまられていた根本的な課題であった。毛沢東は、この課題にたいして、帝国主義相互間の分裂、白色政権=軍閥相互間の分裂と戦争こそが、根拠地存続のための客観的根拠だと答えた。敵の矛盾をつき、その隙間をぬうことによって、小さな赤色政権は労農武割拠を貫徹しうると答えたのである。

この矛盾への着目は、まさしく初発の地点における、毛沢東の中国社会の構造についての認識のありようを明白に示唆している。しかも、これらの矛盾は、けっして一時的、短期的、表面的な矛盾ではない。それはなによりも、帝国主義と中国の、そしてまた中国社会自身のかかえる構造的矛盾である。

 

 根拠地は中国の持つ「構造的矛盾」の産物であり、革命のためには、「矛盾」を見出す必要がある。「矛盾」こそゲリラの通る「孔」である。

 

 

毛沢東がマルクス主義から吸収したのは矛盾の弁証法である。毛沢東は、『杭州会議での講話』で、「弁証法には三大法則があると言われたが、()私の考えではただ一つの基本法則、すなわち矛盾の法則があるだけだ」と言い、『哲学の問題についての講話』の中でも、「エンゲルスは三つの範疇について話したが、私は、そのうちの二つの範疇について信じていない。対立物の統一が最も基本的な法則である」と話している。マルクス主義自身にも矛盾が存在する。マルクス主義を包囲し、持久戦に持ちこまなければならない。毛沢東は矛盾の分析を通じて、マルクス主義との闘争を繰り広げる。「分析の方法は弁証法の方法にほかならない。分析とは、事物の矛盾を分析することである」(毛沢東『中国共産党全国宣伝活動会議における講話』)

毛沢東は、『人民内部の矛盾の正しい処理の問題について』の中で、共産党と人民との間の矛盾を認め、粘り強く包囲する必要性を説いている。「わが国の現在の状況の下では、いわゆる人民内部の矛盾には、労働者階級内部の矛盾、農民階級内部の矛盾、知識人内部の矛盾、労働者・農民両階級間の矛盾、労働者・農民と知識人の間の矛盾、労働者階級およびその他の労働人民対民族ブルジョア階級の矛盾、民族ブルジョア階級内部の矛盾などが含まれる。われわれの人民政府は、人民の利益を真に代表する政府であり、人民のために奉仕する政府であるが、この政府と人民民衆との間にも一定の矛盾がある。この矛盾には国家の利益や集団の利益と個人の利益との間の矛盾、民主主義と集中制との間の矛盾、指導するものと指導されるのもとの間の矛盾、国家機関の一部の要員の官僚主義的な作風と民衆との間の矛盾が含まれる。こうした矛盾も人民内部の矛盾である。一般的に言って、人民内部の矛盾は、人民の利益の基本的一致という基礎における矛盾である」。「党内における異なった思想の対立と闘争はつねに発生する。これは、社会の階級矛盾、および新旧事物の矛盾の党内における反映である。党内に矛盾および矛盾を解決するための思想闘争がなくなれば、党の生命も停止する」(毛沢東『矛盾論』)。矛盾は歴史の原動力であり、排除することはできない。むしろ、人民内部であれ、党内であれ、矛盾を認め、その「孔」を通って、対象を包囲し、持久戦に持ちこまなければならない。矛盾は重要な弁証法的契機なのだ。

そもそもあらゆる事物には矛盾が含まれており、それが力の源となっている。運動形態は、物質の運動形態・発展過程・発展段階の三つに分かれる。この形態が異なれば、含まれる矛盾も違ってくる。ただ、同じ運動形態の中にも、「社会の発展」といった運動形態には「封建的体制」や「資本主義体制」という発展過程があり、こうした過程のそれぞれの本質をつくっているのが「根本的な矛盾」である。一つの過程には「自由主義時代の資本主義」や「帝国主義」といった発展段階に区別され、その性質をつくっているのが「主要な矛盾」である。ある一つの過程の中では「根本的な矛盾」は変わらないが、「主要な矛盾」が変化することによって、段階が変化する。矛盾には敵対的矛盾と非敵対的矛盾があり、「根本的な矛盾」には「普遍性と絶対性」、「主要な矛盾」には「特殊性と相対性」がそれぞれある。さらに、矛盾は主要な側面と従属的な側面とに分けられ、主要な側面が一方から他方に変化することを通じて、発展段階が変わる場合がある。革命状況の中国を例にすれば、プロレタリアートとブルジョアジーの対立が「主要な矛盾」であり、その他の対立は「従属的な矛盾」にすぎない。この場合、「主要な矛盾」を解決することが最大の課題となる。矛盾は「孔」である。「主要な矛盾」は主要な「孔」であり、そこを根拠地にして、「従属的な矛盾」、すなわち従属的な「孔」を包囲する。矛盾の弁証法は条理空間と平滑空間の背後にあって「無数の隙間をとおし両者と通じあっている有孔空間」の作用である。

 

 

 あらゆる事物に矛盾があるとすれば、毛沢東にとっての実践は政治的活動だけではなく、日常生活全般を意味することになる。「例えば、外部の人たちが延安へ視察にやってきたとすると、はじめの一日か二日は、彼らは延安の地形や街路、建物を見たり、多くの人々に接触したり、宴会や懇談会、民衆集会に参加したり、いろいろな話を聞いたり、さまざまな文章に目を通したりする。こうしたことが、つまり事物の現象であり、事物のさまざまな側面であり、事物の間の外部的なつながりである」(毛沢東『実践論』)。実践は一定の認識の過程を経て、身についていく。「客観世界がわれわれを認識するには、一つの過程が必要である。初めは認識しないが、または認識が不完全であり、実践を繰り返すことを通じて、実践の中で成果を収め、勝利を収めるか、またはつまずいてひっくり返り、壁に突き当たり、成功と失敗を比べてみた上で、やっと完全な認識にまで、また比較的完全な認識に発展する可能性が生まれるのである。そのときには、われわれは比較的に主動的になり、比較的に自由になり、比較的に賢明な人間に変わるのである。自由とは必然に対する認識であり、客観世界を改造することである」(毛沢東『拡大中央工作会議での講話』)。その上で、実践は「共通の言葉」を見出すために、行われる。「マルクス主義は、書物から学ぶだけでなく、主としては、階級闘争、活動実践、労農民衆との接近を通じて、初めて真に学び至ることができる。もしわれわれの知識人がマルクス主義の書物を何冊か読み、さらに労農民衆との接近の中で、および自己の活動実践の中で、理解したものが生じたら、そのときわれわれみんな共通の言葉が生まれたのである」(毛沢東『中国共産党全国宣伝活動会議における講話』)。こうした日常生活への新たな提案、「共通の言葉」が革命である。

 

 

オマール では、正しい思想はどこから来るのか?さあ、正しい思想はどこから来るのか?

イヴォンヌ 天から降ってくるの?

(ジャン=リュック・ゴダール『中国女』)

 

 孟子は、君主のための政治「覇道」に対して、君主は「天命」に従って王位につき、天命は「民意」によってはかられる「王道」が理想の政治であるから、天命を革め、新たな王朝にする「易姓革命」は是認されると説いている。確かに、正しい思想は、ある意味では、天から降ってくる。しかし、ポスト・エンペラーの時代である現代の革命は階級の革命であって、易姓革命ではない。「人間の正しい思想は、どこからくるのか。天から降ってくるのか。そうではない。自分の頭の中にもともとあるものか。そうではない。人間の正しい思想は、ただ社会的実践の中からだけくるのであり、ただ社会の生産闘争、階級闘争、科学実践という三つの実践の中だけからくる」(毛沢東『人の正しい思想はどこからくるのか』)。つまり、「正しい思想」は「社会的実践」の中から得られる「共通の言葉」である。

 

 

Fu Manchu and Susie Que

And the firls of the floating world

Junk sails on a yellow sea

For Susie Wong and Shanghai dolls

 

Susie can soothe

Away all your blues

She's the mistress

The scent of the orient

(Yellow Magic Orchestra “La Femme Chinoise)

 

 

中国人の理論と実践の関係に関する認識は、数学を例にとって見ると理解しやすくなる。中国人は数学を実践に応用することに精力を費やし、ユークリッド原論のような理論的な体系を構築する研究の対象とは考えていない。中国人は、インド人と違い、形式論理学にほとんど関心を示していない。彼らは、ユダヤ人同様、歴史に興味を抱いている。と同時に、ギリシア人とも違い、無理数をタブー視もしていない。彼らは、数学を役に立つかという観点から、評価しているのだ。森毅は、『分数の発想・小数の発想』において、「中国文化は、もともと分・厘・毛の小数文化」だと指摘している。「小数の発想は一本調子だ。まず単位で測って、余りがあると、別の小さな補助単位で測っていく。測られるべき量は、測る者の現前に存在し続ける。その客体性はゆらぐことない。こうしたことをおもいあわせると、近代ヨーロッパが小数を主調音にしていることも、なんとなくもっともである。目標を定めて、目的合理性にしたがって、ともあれ数量化する。その残余は、新しい単位を手段に、さらに細密化する。こうして、成果を蓄積しながら、目標へ向けて上昇していく」。「視線を定めることなく、関係性の相互規定のなかで数量化していく分数の発想は、互除法を原型として、逐次近似の手法となってコンピュータのループとなる。案外に、分数の発想も現代的と言えなくもない。考えてみれば、現代にあっては、関係性が相対化され、相互の規定が社会の構造を作っている。古典的な、一本調子の小数の発想が、だんだん有効性を失っている」。代数の表記に記号を使わず、概念を言葉で記している特徴が見られ、中国人の計算能力は、そろばんのため、非常に正確である。五世紀に、羅針盤の研究でも知られる祖沖之が弾き出したπの値の精度にヨーロッパ人が到達するのは一七世紀まで待たなければならない。また、一二世紀以前に、一般に「パスカルの三角形」と呼ばれる二項定理を導き出している。パスカルの三角形に最初に言及しているのは一一世紀の賈憲であり、一二世紀の楊輝と朱世傑が完璧に描き出している。パスカルの三角形は確率計算に用いられ、組み合わせ理論という応用数学の基礎の一つである。中国人は、歴史的に、このように実用性において理論と実践の一致を捉えている。

 

 

1

1 1

1 2 1

1 3 3 1

1 4 6 4 1

1 5 10 10 5 1

1 6 15 20 15 6 1

1 7 21 35 35 21 7 1

1 8 28 56 70 56 28 8 1

 

 

「毛沢東の中国とケ小平の中国とが、どうも一つに像を結ばない。極端な理想主義者だった毛沢東に、極端な現実主義者だったケ小平」と言いながら、森毅は、『中国という謎』において、毛沢東主義とケ小平主義の関係を次のように述べている。

 

 ケ小平語録がいろいろ紹介されているが、ぼくの感心したのはあまり出ていない。南巡講話のときと言われるが、「わしの最大の発明は議論しないこと」という発言。未来へ向けての政治の道はどうせ紆余曲折していて、AにするかBにするか、いくら議論していても決まりっこない。さしあたりは、議論で決めずに、ともかくAでやっていって、調子が悪ければBにすればよい。これはすごい自信。Aで進んでいるのをBに移るのには、Aを続けるよりもずっと大きな力がいる。

 毛沢東の場合は、いろいろややこしいなかで、これぞ「主要な矛盾」ととらえて集中するのが得意だった。困るのは、なぜそれが「主要」かを判断する基準がないこと。それでも、一つの道を突き進んで、文化大革命まで行った。ケ小平の場合は、開放路線を突き進んだということでもあるまい。

 それで、政治改革を否定して天安門事件になったと言われるが、民主化運動というのも、いくらか毛沢東風で、裏返しの文化大革命のような気分がしないでもない。

 

 中国を微分方程式で理解することは困難である。二項定理を驚異的な時期に導き出しているように、中国の民衆は無限級数的あるいは組み合わせ的な数であり、差分方程式を用いるべきだ。「百花斉放・百家争鳴」。中国は組み合わせ理論の世界である。毛沢東が主観の能動性を強調している通り、その矛盾が「主要」なのか「従属的」なのかを「判断する基準がない」。ただ、それは、実践を通じて、「共通の言葉」が見出されたとき、判断される。この過程には持久の弁証法が必要となる。マオイズムにも「主要な矛盾」と「従属的な矛盾」があり、それは毛沢東によって完結しない。周恩来やケ小平が必要となる。つまり、毛沢東主義は母関数であるから、民衆という係数が大きくなれば、計算が困難になるので、スターリングの公式を援用することにより、絶対誤差は増大するとしても、相対誤差は現象する。『矛盾論』の毛沢東の「仕事の目的はまさに、この普遍的なものに対して、抽象行為とか『哲学の』(イデオロギーの)誘惑を禁じ、この普遍的なものをその条件──科学的に種差化された普遍性という条件──へ強制的に戻すことなのである。普遍的なものがこのような種差性でなければならないとすると、われわれはこうした種差性の普遍でないような普遍というものを引き合いに出す権利を持たない」(ルイ・アルチュセール『唯物弁証法について』)

 

 

 毛沢東とケ小平の間の距離はそれほど離れていない。両者とも中国共産党が中華人民共和国を代表する主権在党や地方分権の推進、中国経済の建て直しの必要性を認めている。権力闘争で劣勢になると、いずれも地方から巻き返しを図っている。毛沢東は、一九六六年夏、湖南省韶山に帰郷して、読書と思索に耽った後、八月五日、北京に戻り、「司令部を砲撃せよ」と題した『私の大文字報』を公表し、プロレタリア文化大革命の開始を宣言している。一方、ケ小平は、一九九二年初め、広東省の経済特区で地方幹部を相手に「三つの有利論」を始めとする「南方談話」を発表している。改革開放を大単位進めなければならない。生産力や国力、生活水準の向上にとって有利な制度・政策であれば、それは社会主義である。

 言うまでもなく、相違点もある。毛沢東が経済成長を禁欲主義=勤労=精神主義によって達成できると信じていたのに対し、ケ小平は快楽主義=欲望=物質主義が原動力だと認識している。また、前者が人海戦術的な民力に活路を見出したが、後者は企業の活性化や先進的な科学技術を重んじている。これには両者の海外生活の有無が一つの理由だろう。に起因している。若い頃、ブランスの近代工場で働いた経験があるケ小平と違い、毛沢東は青春期に中国から外に出たことがない。

 

 

中国共産党は、今日、世界最大の政党であり、党員数は約六五〇〇万人である。イギリスやフランスの人口を上回り、日本の人口の半分にあたる。ところが、共産党員は全中国の人口ではわずかに五%程度を占めているにすぎない。それは二項定理の出発点である。

 中国には「公務員」が存在しない。党政分離がされていないため、中国共産党=中国政府である。それは官僚と政治家が分化していないことを意味する。制度としての公務員は、従って、いない。

 

 

Once I was young

Once I was smart

Now I’m living on the edge of my nerves

The things we said weren’t quite so tough

When we were young

Well I’m burning, I’m burning buildings

I’m building this time.

 

For the art of parties

Under heavy weather

For the art of parties

I’m burning, burning.

 

I’m living I’m living my life

I’m living this time

For the art of parties

I’m burning, burning.

 

(The wind blew through my hair)

Once I was young

(I shelter from the sun)

Once I was smart

(We lived on the strength of our nerves)

When we were young

Well I’m burning, I’m burning buildings

I’m burning.

(Japan “The Art Of Parties”)

 

 

われわれの事業を指導する核心の力は中国共産党である。

われわれの思想を導く理論的基礎はマルクス=レーニン主義である。

(毛沢東『中華人民共和国第一期全国人民大会第一回会議における開会の辞』)

 

 

 毛沢東は主観の能動性を強調する。「いかなる知識の源も、客観外界に対する人間の肉体的感覚器官の感覚にある」(毛沢東『実践論』)。主観は能動的であるから、実践を通じて、「共通の言葉」を見出し、それが基盤となる。マオイズムは一九六〇年代後半「共通の言葉」になる。

 「共通の言葉」は「造反有理」として中国に限らず、世界を覆う。毛沢東は、『延安各界のスターリン六十歳誕生日祝賀大会における講話』において、「マルクス主義の道理は、千条も万条もありますが、根本をたずねるなら、つまるところは一言『造反有理』に尽きます。何千年来、いつも言われてきたのは、圧迫有理、搾取有理、造反無理でありました。マルクス主義があらわれてから、この古い判決をひっくり返してしまったのであります。これは大きな功労です。この道理は、プロレタリア階級が闘争の中でわがものとし、マルクスが結論としたものであります。この道理に基づくがゆえに、反抗し、闘争し、社会主義をやるのであります」と語っている。「圧迫」や「搾取」に対して行われる「共通の言葉」としての「造反」は正しいというわけだ。

マオイズムはカウンター・カルチャーの一つとして世界的に受容されている。ジャン=ポール・サルトルは、『フランスにおけるマオイスト』の中で、「暴力、自然発生性、道徳性──これがマオイストにとって、革命的行動の直接的な三つの特徴である」と指摘している。これは、むしろ、カウンター・カルチャーの特徴である。毛沢東は、アンディ・ウォーホルが取り上げたように、エルヴィス・プレスリーと同じイコンと見なされている。カウンター・カルチャーは今までに形作られてきた文化のメイン・ストリームに対する反発であると同時に、それを支えるモダニズム的価値観への批判である。一九六〇年代後半のアメリカにおいてカウンター・カルチャーは絶頂期を迎える。ヴェトナム戦争への厭戦観が蔓延し、また資本主義の矛盾が多く露呈した当時、若者の社会に対する不満はPCという旧套打破の運動として噴出するだけでなく、ビートニク以来のヒッピーやドラッグに代表されるカウンター・カルチャーとしても顕在化する。モダニズム的価値観への批判のために、カウンター・カルチャーは先鋭的な形を取らざるをえない。それはモダニズムが具現した前衛芸術のように芸術の自己更新ではなく、権威主義的な芸術を社会に対して開いていくことが主眼であり、その多くはロックのようにポップカルチャーやサブカルチャーで発揮されている。そうした特徴の多くは、後のポストモダニズムへと回収されていくことになる。ウッドストックのころ、『毛沢東語録』を手に、毛沢東の肖像を掲げ、デモ行進することはモードである。毛沢東主義における毛沢東への個人崇拝が問われている。むしろ、毛沢東主義を通じて、個人崇拝に対する逃走と持久の弁証法を展開できる。毛沢東の肖像を無限級数的、二項定理によって、大量生産・大量消費することが最大の批判である。

カウンター・カルチャーは米ソ冷戦構造など対立軸がvisibleな状況で生まれているが、今日のように、対立軸がinvisibleであれば、オルタナティブとしてのマオイズムを考えなければならない。

 

 

You say you want a revolution

Well you know

We all want to change the world

You tell me that it's evolution

Well you know

We all want to change the world

But when you talk about destruction

Don't you know you can count me out

Don't you know it's gonna be alright

Alright Alright

 

You say you got a real solution

Well you know

we'd all love to see the plan

You ask me for a contribution

Well you know

We're doing what we can

But when you want money for people with minds that hate

All I can tell you is brother you have to wait

Don't you know it's gonna be alright

Alright Alright

 

You say you'll change the constitution

Well you know

we all want to change your head

You tell me it's the institution

Well you know

You better free your mind instead

But if you go carrying pictures of Chairman Mao

You ain't going to make it with anyone anyhow

Don't you know, know it's gonna be alright

Alright Alright.

(The Beatles ”Revolution 1”)

 

 

 短期間の劇的な変化を総称する革命と長期戦を意味する持久戦との間には、確かに、矛盾がある。だが、この矛盾は望ましい。「すべての反動派はハリコの虎です。見たところ反動派は恐ろしい格好をしていますが、実際にはたいした力はないのです。長い眼で問題を見れば、真に強大な力を有するのは反動派ではなくて、人民なのです」(毛沢東『アメリカの記者アンナ・ルイズ・ストロングとの対話』)。革命の持久ではなく、革命に対する持久が必要である。長い革命は革命に対する持久戦を意味する。革命は情熱や憤怒によって継続されてはならない。革命にはファッション性とベンチャー性がある。革命は、何よりも、自由へ愛であり、危険への愛なのだ。しかし、愛は移ろい易い。

 毛沢東は、そのため、農民に着目している。農業は包囲と逃走という持久の弁証法を必要とするからだ。農業は、通常は、ゆっくりと移動している。農業の安定性・土着性は近代のイデオロギーにすぎない。農産物はたんなる食料ではなく、文化であり、技術である。それは伝播する。だから、農業は劇的に歴史を変化させる。「もともとイングランドで飲んでいたのは、ミルクティーである。イタリアの移民が、アメリカの東部で、レモンティーをつくって流行らせた。それ以前から、紅茶には砂糖。アフリカから黒人を連れてきて、サトウキビを栽培させた。農業には、こんな世界史を揺り動かす話がある」(森毅『教えます、農業を魅力的にする方法』)。農業を土地と結びつけて考えるべきではない。「衣食住というように、本来、農業は衣に次ぐファッショナブルな産業だ。なら、食生活をデザインするカッコイイ職業、という視点があってもいいはずだ。やり方次第では、アグリカルチャアデザイナーにアグリカルチャアコーディネーターなどといった横文字な商売が、若者の人気職種に名をつらねる素敵な商売になるともかぎらない」(『教えます、農業を魅力的にする方法』)。紅衛兵が農村に向かったのはファッションからだが、彼らは農業を十分にファッションとして捉えていない。ファッション性とベンチャー性こそ農業の本質である。

 

 

野村浩一は、『毛沢東』において、毛沢東にとってマルクス=レーニン主義は「教育の思想」であると指摘している。教育には革命の特徴が認められるのである。「毛主席には、いわゆる”四つの偉大”()の肩書きがつけられているが、何とわずらわしいことか。それらは遅かれ早かれ排除されるであろう。ただ、”教師”という言葉は残されよう。()単に学校教師という意味である。毛沢東はずっと学校の教師であり、いまだにそうである。共産主義者になる以前からすでに長沙で、小学校の教師をしていた。その他の肩書きはすべて辞退するであろう」(エドガー・スノー『革命はつづく』)

毛沢東の「教育」は、森毅が『できない奴から学んでこそ真のエリート』の中で次のように語っている教育であろう。

 

ズッコケ君は非効率でほとんど三振ばかりだが、まぐれで当たると場外ホームランをかっとばすこともある。しかし、悲しいかな、ホームランを打ってもわからぬところがズッコケ君のズッコケ君たるゆえん。それをじっと観察しているのが抜群さまだ。

 抜群様はアホから学ぶ能力を持っている。ズッコケ君のたまたま当てたアイデアを拾い出し、ヒントにして新たな分野を切り開く。ズッコケ君の手法に隠れた珠玉の璧を見逃さない。ここらあたりに、ズッコケがいないと抜群も生まれないという構図がある。

 とすれば、ズッコケ君は単に抜群さまに奉仕する存在でしかないことになる。だが世の中はよくしたもので、ほんのたまに異常な現象が起こる。ズッコケ君がその持ち味を生かして抜群さまに変身する。

 

毛沢東の「教育」、すなわち「プロレタリア教授」は「アホから学ぶ」ことであり、「ズッコケ君がその持ち味を生かして抜群さまに変身する」ことの弁証法である。この変身は矛盾であり、「ほんのたまに異常な現象」であるため、持久が必要とされる。毛沢東は、中国共産党八全大会第二回会議の席上、「では、プロレタリア教授に対してはどうか。私は恐れている人がいると思う。例えば、マルクスを恐れている。彼は非常に高い建物に住んでいるから、そこに行くにはいく段もいく段も梯子をかけなければならない。私など一生涯希、望がないことになる。()だが、恐れることはない。マルクスのものを必ず全部読む必要はない。一部の基本的なものを読めば、それで足りる」のであり、「若者が老人に勝り、学問が少ない人間が学問が多い人間を打倒することができる」と言っている。毛沢東は、読書を通じて、自分なりにつかんだことをギャンブル的に組み合わせる。教育には、農業同様、ファッション性とベンチャー性があり、持久の弁証法を必要とする。つまり、「ズッコケ君がその持ち味を生かして抜群さまに変身する」教育も革命である。

 

 

“We need to know whether or not people are learning. And if they are, there will be hallelujah all over the place”.

(George W. Bush)

 

 

自分の通う高校を良くしたいと思う心根は見上げたものである、と一応は褒めよう。

しかし、いくら彼が孤軍奮闘して学校の改革を唱え、それに賛同する仲間がいても、一朝一夕には母校が変わるわけもない。たっぷり十年はかかる。十年後にいくら高校が良くなったとしても、その恩恵にあずかるのは自分ではなく、見ず知らずの荒廃だ。『そんなバカなことはやめとき』が、ぼくのアドバイスである。どうせなら、今の制度のなかで自分にメリットになる良いところだけをうまく利用したほうがいい。肩ひじ張って改革してやろうなどと思うより、むしろそのほうが結果的に母校を良くすることにつながると思う。

 

後々までに心に残る文芸作品や芝居、映画といったら、ほんとうに少ない。百本に一本あればいいほうだ。短いスパンではよかった作品が五割になったり、まったくなかったりするが、長い間マニアックにつき合っているとこのぐらいの歩留りに落ち着く

(森毅『オール・オア・ナッシングでは悲しすぎる』)

 

 

“Is our children learning?”

(George W. Bush)

 

 

 「人民、ただ人民のみが世界の歴史を創造する原動力である」(毛沢東『連合政府論』)。その歴史を創造する原動力である。民衆は数えられる数ではない。民衆は数の論理で成り立つものではない。数で権力を競い合う選挙は民衆をただ数としてしか見ていない。毛沢東はそれを拒否する。多数票を獲得した者が権力を握る選挙はより売れる物が善であるという資本主義的道徳の反映にすぎない。どうしても中国の民衆を数として扱うとするなら、「群」を導入し、彼らの動きを把握するにはバーンサイドの定理やポリヤの公式を適用するほかない。毛沢東はそれに気づき、民衆を無限級数へとつながる二項定理的な存在と見ている。毛沢東の闘争は持久戦である。毛沢東主義には弁証法がないように見える。弁証法が非常に長い時間と広い空間で行われているため、そう感じられるのにすぎない。持久の弁証法の基本形は二項定理である。根拠地をつくりながら、逃走し、逆に、敵を包囲するという持久の弁証法である。毛沢東はマルクス主義自体を持久の弁証法の中で把握する。

 革命以降の毛沢東の最大の敵は「官僚主義階級」である。「官僚主義者階級」は「孔」をふさごうと企てる。毛沢東は民衆に訴えて、「官僚主義者階級」を包囲し、「孔」を開ける。「天を恐れるな、幽霊を恐れるな、死人を恐れるな、官僚を恐れるな」(毛沢東『湘江評論』)。文化大革命は官僚支配からの解放のために、発動されている。民衆は線形的な数ではない。毛沢東は線形的な数の社会では力を発揮できない。非線形的な数、すなわち民衆にアピールするほかない。ただ、毛沢東の宣伝は、ナチスと違い、マスメディアを使わない。マスメディアが未発達な中国では、むしろ、口コミに訴える。ホームページ的な「大字報」など口コミによるキャンペーンが毛沢東の政治アピールである。けれども、口コミは、二項定理の世界においては、無限級数的に増殖する。毛沢東は、その増殖力によって、「官僚主義階級」に戦いを挑む。

 

 

従来、毛沢東を考える際に、矛盾の弁証法が着目されてきたが、真に重要なのはそれを包括する持久の弁証法である。矛盾の弁証法はそれへの根拠地にほかならない。毛沢東は根拠地をつくりながら逃走し、次第に敵を包囲するという持久戦を得意としている。これは国民党との内戦に限らない。毛沢東の読書は根拠地をつくりながら逃走し、逆に、相手を包囲していくスタイルをとっている。根拠地は構造的矛盾の産物、すなわち「孔」であり、根拠地は教育=宣伝によって建設しなければならないから、ベンチャー性と同時にファッション性がある。逃走していく中でも、根拠地が「共通の言葉」と確認されたとき、敵を包囲していることが明らかになる。この持久の弁証法というキャンペーンこそが毛沢東主義の歴史的意義である。「一言で言えば、毛沢東は『持久の人』である。彼のねばりは、革命にとって不可欠のものである」(寺山修司『毛沢東』)

 

 

数学の本を書くとき、いろんな人の考えたことを利用して、それなりのプライオリティに敬意を払う。しかし、だれとかの定理であるとことわっても、原論文のまるごと引用はまずしない。その本の展開の文脈のなかでなければ、読めたものではないからだ。ときには定理の表現まで、原著とすっかり変わることもある。オリジナリティの知的所有権に敬意を払ってはいても、ヴァージョンはすっかり自分流にアレンジしてしまう。

 定理のように形をとってしまうと、所有の対象になりやすいが、アイデアのオリジナリティはどうなるか。もともと、議論のなかでなんとなく発生したりするので、だれに所属していたかも決めにくい。ときには、時代がもたらしたものとしか言いようのないこともある。それでいて、作品以上に、アイデアのほうが情報として意味を持っている。

(森毅『知の所有とは?)

 

 

 毛沢東は、組織論においては、ミハエル・バクーニンを援用する。バクーニンは農民の革命的能力を高く評価し、下から上へ、あるいは周縁から中心へと革命組織を形成する必要性を説く。包囲が中心を導き出す。そうした包囲において、退却が攻撃に移る。毛沢東は、『中国革命戦争の戦略問題』のなかで、「兵力を分散させて民衆を動員し、兵力を集中して敵に対処する」のであり、「固定した地域の根拠を波状的に広げていく政策をとる。強敵が追いかけてくれば、ぐるぐる回る政策」をとり、「短期間に、すぐれた方法で、多くの民衆を立ち上がらせる」という投網戦法を提唱している。毛沢東は都市の労働者中心だった革命運動を農村の農民を中心とした武力解放闘争へと変更している。毛沢東は農村から都市を包囲する革命路線を打ち立てる。大長征や中国革命はその成果である。毛沢東は社会主義段階における階級闘争の持続、連続革命論を提唱している。文化大革命はこの連続革命論の帰結である。

 

 

一〇〇万人に及ぶ中学生や高校生、大学生は、一九六六年八月一八日、人民解放軍と同じ格好をし、『毛沢東語録』を手に、「毛主席万歳」と叫び、天安門広場へと行進する。「紅衛兵」と呼ばれる彼らは「革命無罪」や「造反有理」、「破旧立新」のスローガンを口々に唱え、「文化大革命」を推進していく。その集会で毛沢東の激励を受けた紅衛兵は、勢いを増し、全国各地で急速に組織化を進め、「資本主義の道を歩む実権派」を攻撃する。運動拡大に際して、壁新聞である「大字報」を利用したり、また経験の交流のために北京から使者を各地に派遣している。「四旧打破」、すなわち古い思想・文化・風俗・習慣の打破を唱え、「黒五類」、すなわち地主・富農・資本家・反革命分子・悪者に狙いを絞る。彼らは紅衛兵によって家に押し入られた挙げ句、芸術品を破壊され、貴金属品を没収されるだけでなく、つるし上げられた後、三角帽子をかぶせられて、トラックに乗せられて市中を引き回される。およそ九五〇〇万人が被害にあったと言われている。

社会主義社会を階級闘争が継続する過渡的社会とし、資本主義に変質させようとする修正主義とつねに戦わねばならないという毛沢東の階級闘争理論が基礎となっているが、実際には、一九五八年に始めた大躍進政策が失敗し、国家主席を辞任した毛沢東が自らの復権を目指した権力闘争である。大躍進の失政は、一説によると、四〇〇〇万人が餓死したとされ、この餓死者の数は、人為的な飢餓としては、おそらく、史上最悪であろう。『毛沢東語録』に経済をめぐる記述が希薄であるように、毛沢東にすぐれた経済政策どころか、凡庸な政策さえ期待することも不可能である。他に、中ソ対立ならびにアメリカのヴェトナム政策への対応といった国際情勢の変化も要因の一つとしてあげられるだろう。最初の目標は「資本主義の道を歩む一握りの実権派」劉少奇やケ小平の打倒に置かれ、一九六五年一一月に発表された「実権派」を非難する姚文元の『「海瑞罷官」を評す』を口火として、文核の炎が燃え始める。しかし、実権派の根強い抵抗にあったため、毛沢東は国防相林彪と結託して、一九六六年五月、中学、高校、大学の学生を紅衛兵として組織し、実権派批判を展開させる。さらに、毛沢東は文革への中国共産党の後押しを強引にとりつけ、運動を全国規模に拡大させる。文芸の路線対立から始まっているせいもあり、文学作品は最も統制された分野の一つである。毛沢東の妻で党中央文革小組第一副組長江青の指導する革命規範劇以外は許されなくなっている。ただ、この時点ではまだ街頭闘争だったが、一九六七年ごろから文革は実権派の権力を奪うという奪権闘争としての性格を強めていく。

ところが、次第に、紅衛兵は互いに武闘を繰り返すようになり、毛沢東や林彪、また共産党中央や国務院の文革推進派からも疎まれるようになる。混乱を収拾するため人民解放軍の介入が決定される。一九六七年の「三・七指示」によって学校に戻され、その後、貧農に学ばなければならないという「下放」の名の下に、多くの紅衛兵が地方農村へ送られている。しかし、彼らは、結局、貧農の畑から盗んで餓えをしのぐしかなくなり、文革が終わったと知るやいなや、都市に逃げ帰っている。

 

 

We’re pushing through these farming towns

We’ve worked hard ploughing over ground

 

Red Army calls you

The call of the crowd

Red Army needs you

It calls you now

Cantonese Boy

Bang your tin drum

Cantonese Boy

Civilian soldiers

Cantonese Boy

Bang your tin drum

Cantonese Boy

Red Army calls you

 

We’re singing, marching through the fields

We’re changing the lads we’ve led for years

 

Red Army calls you

Red Army needs you

Red Army calls you

Red Army needs you

 

Gentlemen, you heard us call

Raise your glasses, hope for more

Only young men broke the war

(Japan “Cantonese Boy”)

 

 

紅衛兵を群集行動と把握することもできよう。群集、すなわち「マルチチュード」(アントニオ・ネグリ=マイケル・ハート)は不特定多数の人間が何らかの共通の興味・関心や動因に基づき、特定の場所において偶発的・突発的に集合した集団であり、群衆行動はその状況下の個人の心理状態に規定される群集特有の行動様式である。群集の行動の目的には、必ずしも、共通した認識も、集団内の役割分化も、集団所属意識もない。

RW・ブラウンは、『社会心理学』の中で、これを「一時的、不定期的な集合で、動因が焦点化されており、一時的なわれわれ意識をもつ未組織の集合体」と定義している。未組織的集団という観点に立てば、群集は次の三つに整理できる。第一にトイレット・ペーパーの買占めのような無統制群集、次に反政府暴動や統制を失ったデモ隊に見られる権威や統制に反逆する反統制群集、最後に火事場に集まってきた群集が示す非統制群集である。また、共通動因の発生から分類すれば、災害時などに突発的に生じ、群集心理にかられやすい突発的群集、スーパーやデパートの特売場のように、共通動因を生む焦点が存在し、群集がそこに引き寄せられていく場合の偶発的群集、スタジアムに集まった聴衆の三つがあげられる。特に突発的群集の中でも、激しい動きを示す群集を「モッブ(Mob)」と呼び、その能動性の種類によって、暴動に見られる攻撃的モッブ、敗走する軍隊や地下街の火事で逃げまどう群集のような逃走的モッブ、取り付け騒ぎなどの利得的モッブ、ポップ・スターに熱狂する聴衆が示す表出的モッブに分かれる。「定義というものは現象の全面的な連関を、その完全な発展において、捉えることが決してできない」(レーニン『帝国主義論』)

これらの群集のとる行動は、ギュスターヴ・ル・ボンの『群集心理』によれば、群集心理には次のような一般的特性がある。共通の動因によって情動的に同質的になり、個人はその同質性の中に埋没して匿名的状態になる。それによって規範的意識が薄れ、極端な情緒的行動にかられやすくなり、無責任な行動に走りやすい。また、他者との同質性によって自他の境界が薄れ、被暗示性が強まる。そういった感情に支配されるため、普段とは違って、論理的判断や合理的思考ができなくなり、無批判的に周囲に迎合しやすくなる。こうして群集行動には、一般に、非合理性・感情性・軽信性・匿名性・無責任性・無批判性・被暗示性が認められる。

けれども、ル・ボンの感染説やガブリエル・タルドが『世論と群集』で展開した暗示・模倣説、合流説、規範説、欲求不満解消説では群衆行動を十分に説明できない。原因の解明よりも、むしろ、群衆行動は非線形的現象として統計力学的に理解すべきである。群集はその濃度が一様ではない。熱狂には熱い部分と冷たい部分があり、前者と後者の関係が群集を特徴付ける。手塚治虫がモッブ・シーンを生命力の爆発と描いているように、群集行動は起きるものであり、決して否定的に考えてはならない。より重要なのは群集行動のキャンペーン性をどうするかなのだ。毛沢東は、この点で、史上最大の扇動家である。

 

 

 晩年の湯川秀樹さんとお喋りしたときに、話がたまたま、『水滸伝』の梁山泊の指導者宋江の話になったことがある。湯川さんに言わせると、「宋江ちゅうのは、どこが偉いかわからんやっちゃ。どうも偉いところが三つあるらしい。第一に親孝行、捕まるとわかったところでも親孝行しよる。これは、日本人にはわからんけど、なにか一つ親孝行といった義を持っていて、それで打算を離れるのがええのかもしれん。第二にワイロの使い方がうまい。味方が牢に入れられても、うまいこと裏から手ェ廻して、出してしまいおる。第三に、なにやらボヤーンとしておって、個性的な豪傑どもの上をユラユラしとる。これは、なかなか出来んこっちゃ」。

 でも、ただボヤーンとしているだけではあるまい。八方に気を配っていて、その気を配っているところを見せないのだろう。

 そもそも、集団がうまく進むには、活性と抑制がバランスをとっていなければなるまい。活性だけでブレーキがなければ暴走する。集団は自動車でないので、アクセルとブレーキを、指導者がふめばよいものではない。それに、全部が指導者の制御にかかっていたりしては、集団内部に自己責任が希薄になる。責任というのは、部署を守ることではない。部署を守るというのは、「官僚的責任」というだけのことだ。

 だから、集団が一方向に整然と「機械のように」進んだりせずに、ズッコケやらシラケやらをうまく組みこんで、自然に動くのがいいと思う。指導者の思いどおりの「集団」なんてのは、少なくとも長期的には破綻する。だれの思いどおりにもいかないのが、集団というものだ。

 管理者だけに責任を押しつけたりしては、二重によくない。管理者が判断を誤るという可能性はいつでもあるし、管理者以外が判断しなくなる。

 だから、管理というのは、思いどおりにならないし、思いどおりにいっては危険なものだと思う。それだけに、すべての徴候に気をつけ、さまざまの人間の微妙なあり方、活性と抑制の双方のバランスを計量するのが、管理というものなのだろう。

(森毅『集団なんて所詮勝手もんの集まりだ』)

 

 

文革に入ると、中国の工業生産は二〇%も下落し、一九七一年以後、党の方針は政治思想教育重視から経済建設重視への変化を余儀なくされる。こうした状況下、中国はアメリカや日本と接近し、国交を結ぶ。ただ、第二次世界大戦中、日本軍との戦闘の際、共産党軍に武器を含めた物資を提供していたのはアメリカである。アメリカは、英領のインドからヒマラヤ経由で、共産党軍に空輸している。このルートは天候が極めて不安定で、危険が伴うが、他の選択肢はなく、数多くの輸送機の乗務員が命を落としている。米中はこのように協力していた時期がある。一九七三年の第一〇回全国代表大会では、周恩来ら五人の脱文革派が党副主席に就任し、林彪亡き後の文革派のリーダーである江青らの急進派と実務派の主導権争いが再燃する。一九七六年一月、周恩来の死を悼む群衆が公然と文革派に反旗を翻し、四月には、天安門事件が起こり、文革体制は根本から動揺する中、重陽の節句の日である九月九日、毛沢東が死去、一〇月、江青・張春橋・王洪文・姚文元の「四人組」が逮捕され、文革の終了が宣言される。一九八〇年代に、文化大革命は、正式に党によって「動乱の一〇年」とされ、その意義は否定される。

 

 

 文化大革命は、正確には、クーデターである。革命ではない。共産党内の権力闘争の一環である。歴史的に、クーデターが「革命」を名乗ることは少なくない。若者が購買力を背景に影響力を持つようになったのは二〇世紀が初めてである。若者は、第二次世界大戦後、同時代的に、反抗を繰り返し、文化を形成する。その意味で、二〇世紀は若者の政治である。毛沢東はロックンロールに代表される一九五〇年代に始まった若者による革命に便乗したにすぎない。

 

 

世界卓球選手権男子シングルスで第二六回から三年連続優勝した荘則棟は、『人民日報』とのインタビューで、「ピンポン外交」をめぐって次のように述懐している。

 

中国とアメリカとの間で展開したいわゆる「ピンポン外交」には、歴史的な事情があった。一九七〇年、毛主席はアメリカのジャーナリスト、エドガー・スノーに接見し、「われわれは今アメリカの人民に大きな期待を寄せている」と語った。七一年、名古屋で開催された第三十一回世界卓球選手権大会に、われわれ中国選手団も参加することになった。文化大革命が始まって以来途絶えていた国際大会への出場で、周総理は私たちに「友好第一、試合第二の方針を貫くように」と語った。政治を最優先させよ、という意味だ。私たちは、その重い任務と全人民の期待を背負って、名古屋に着いた。日本卓球協会は非常に親切で、会場までバスでわずか十五分のところにあるホテルを私たちの宿舎にあて、大型の専用バスをつけてくれた。ある日、私たちのバスが出発しようとする時、髪の長い外国人が飛び込んできたので、びっくりした。彼も中国選手団のバスだとわかってドキッとしたようだが、バスはもう動き出している。彼が後ろを向いたとき、ゼッケンの「USA」という文字が見えた。十分ほど、だれも口をきこうとしなかった。なぜか。文革中にスパイ容疑や「外国と関係がある」という罪名で半殺しの目にあった人が少なくなかったので、みなおびえていたのだ。それに五〇年代以降、国際大会で出国した選手はアメリカの選手との付き合いを一切禁止されていた。この十分間、一番後ろの席に座っていた私は、アメリカ人に声をかけようか、かけまいかと考え込んだ。文革最中の「外国関係」や吊るし上げのことを思うと、背筋が寒くなった。しかし、毛主席がスノーに話したことや、周総理の「友好第一、試合第二」という言葉を思い出して、私は記念品に持ってきていた錦織りをバッグから取り出して立ち上がった。「オイ、何するんだ」とほかの者が私に言った。「彼と話をするんだ」と私は答えた。「やめろ、大変なことになるぞ」となおも止められたが、私は通訳を通じてアメリカ人に「アメリカ政府は中国に友好的ではないが、アメリカ人民は中国の友人です。友情の印としてこれを受け取ってください」と言った。彼は、自分の名前はコーンだと自己紹介した。五分ほど話しているうちに、会場に着いた。この短い時間を、毛主席、周総理、ニクソン大統領は、後に続く一連の外交に利用し、中米関係の改善を実現させたのだ。

 

小さく軽いピンポン球は、ベルヌーイの法則に則って、すなわち流体力学的現象として、ふわりと舞ったかと思うと、鋭く曲がり、あるいは驚くべきスピードで、相手のコートに打ちこまれる。ピンポンは極めてゲリラ的なセンスが要求されるスポーツである。「海水浴場の業者で、アンガラオという立派な名前のがっしりした男が、大きなバーベルをあげていた。ジル・ドゥルーズは大男を前に観察していた。アンガラオが彼に『やってみませんか』と尋ねると、ジルは『ごめんなさい。好みのスポーツはピンポンなんです』と答える。アンガラオは『ピンポンは運動神経がいるね』と愛想よく言った。ジルは『その通り。しかし、そいつをあげるには運動神経だけじゃ、だめみたいだね』と言い返した」(ミシェル・トゥルニエ『聖霊の風』)。ただ、ジャイアント馬場が、高校時代、野球部だけでなく、卓球部に所属していたことを忘れてはならない。

 

 

「ほんと。大変なんすから、もう。からだ身体だけは大事にしてください。『パンダは何食べてんだろうね』。『えーっパンだ』。どうもすいません」。

(林屋三平)

 

 

毛沢東は政治によって経済を包囲する。「政治活動はあらゆる経済活動の生命線である。社会経済制度が根本的に変革される時期には、とりわけそうである」(毛沢東『「重大な教訓」への評語』)。政治権力の正統性を認知するのは、構成員ではなく、その外部の権力である。権力は外部性をはらんでいる。また、政治権力を正当化しうるのは理論である以上、理論も外部性を有している。外部ではなく、あくまで外部性である。それは「孔」によって通じている。経済だけではない。毛沢東はすべてを政治問題として捉える。「階級社会にあっては、誰でも一定の階級的地位において生活しており、階級の烙印が押されていない思想はない」(毛沢東『実践論』)。毛沢東は、戦略的に、敵を見つけ、それとの闘争の正当性を民衆に訴える。この手法は現代思想家によく見られる。「すべて敵が反対するものは、守らなければならない。すべて敵が守るものは、反対しなければならない」(毛沢東『中央社・掃蕩報・新民報の三記者との談話』)。毛沢東の闘争は仮想敵に向けられる。しかし、それが現実に転化する。極めて目に見える姿に仕立てあげる。こうした敵と味方の判定は間違いではない。政治闘争において敵と味方は思惑によって決まる。抗日路線という思惑で手を組んだ国共合作はその典型である。敵は後から見つけるのであって、現実には存在しない。政治的言説が敵をつくりあげる。

 

 

『毛沢東語録』はすでに発表されている作品の中から、抜粋された引用集である。『毛沢東語録』はマオイズムの広告パンフレット、映画やテレビではなく、CMにほかならない。闘争には長い文章は不要である。短いセンテンスのほうが効果的である。それを反復する。『毛沢東語録』は、何よりも、政治文章であり、プロパガンダなのだ。士気を鼓舞するために、短く、要点だけをまとめたスローガンが望ましい。「抗日救国のために全同胞に告げる書」、いわゆる「八・一宣言」はその典型である。現代の闘争はキャンペーンであり、広告が勝敗を決する。

フラクタル性を帯びる現代芸術では引用が重視されるが、津村喬は、『解説─毛沢東語録』において、引用について次のように述べている。

 

 ブレヒトは『メ・ティ』(墨子のこと)や『コイナさん談義』といった引用集、「語録」としての作品を実際に中国古典に影響を受けながら書いたし、自分の演劇を「身振りの引用集」と考えていた。「ヒトラーは間違っている」とか誰でも知っているつもりのことを宣伝するよりも、みんなが無意識にとっている差別や暴力の身振り、ヒトラーを無意識に支援している行動様式を舞台に上げて鏡を突き付けるようにしたほうが効果的だと考えたのだ。引用というのは言葉をもともとの文脈から切り離して、別の文脈に移すこと、自分の文脈で使うことである。それは一九世紀的な「真理システム」の崩壊のあとで、なお言葉を生き生きと使っていくための細い道だった。ヌーヴォ・ロマンを代表するミシェル・ビュトールは『仔猿のような芸術家の肖像』という自伝をなんとエジプトの古文書の引用だけで書いてみせた。エンツェンスベルガ−はスペイン戦争を当時の新聞の切り抜きだけでひとつの小説に構成してみせた。

 民主主義を深めるにはメディア革命が大事だと考えるエンツェンベルガ−が紅衛兵たちの大字報(壁新聞)に注目して、この大字報とかアフリカのゲリラの持っている無線機とかが次の時代のメディアを準備するかも知れないと書いたことがある。

 

 「引用」というのは正確ではない。反復をさらに反復している。オリジナルもコピーもない。コピーしたファイルを配置しているようなものだ。無限級数的な反復には真実も、虚偽もない。解体=再構築された『毛沢東語録』は、中国国内の五〇種類以上の言語に翻訳され、一〇年間で、五〇数億冊が出版されている。『毛沢東語録』はグーテンベルク革命を最も具現しているだけでなく、「フラクタル立体」を体現している。『毛沢東語録』自身繰り返すような記述が多いが、人民服を着て、毛沢東の肖像を掲げ、それを反復して読むのがフラクタルの体験である。持久の弁証法はこうしたフラクタルの弁証法にほかならない。

 

 

 途上国において、最も深刻なのは農村における貧富の格差の問題である。富の再配分が十分に行われず、貧富の格差が固定化されている。毛沢東主義は、現在でも、影響力を持っており、農村問題がある限り、存続する。マオイズムを掲げる政治団体は世界中に数多く存在するが、中でも、カンボジアの「クメール・ルージュ」やペルーの「センデロ・ルミノソ」、ネパールの「共産党毛沢東主義派」が有名であろう。これらの組織は非常に暴力的・破壊的・教条的であり、マオイストと言うよりも、ネオ・マオイストと見るべきだろう。ヘルベルト・マルクーゼは『ソヴィエト・マルクス主義』において、「否定」の欠落がソ連的全体主義を生んだと言ったが、「否定」の過剰がネオ・マオイズムを生んでいる。

 

 

ネパールの「共産党毛沢東主義派(Communist Party of Nepal Maoist)」は、一九九五年、複数の共産主義政党が合併して結成されている。マルクス=レーニン主義に毛沢東思想を取り入れ、議会制民主主義の否定、王制の廃止、共和制の確立、社会主義的経済社会の構築を目指している。ネパールには、政権を何度か担当した経験のある「統一共産党(Communist Party of Nepal United Marxist-Leninist)」もあるが、こちらは合法的政党であり、議会制民主主義を堅持する方針をとっている。一九九六年の二月からネパール中西部における農業銀行や警察署の襲撃等を皮切りに「人民の戦争(People's War)」を展開し、強制的献金徴収による資金確保、貧村への寄付を通じたシンパの拡大、武装化を行っている。二〇〇一年四月には全土の約一割に当たる制圧地域で「独立宣言」を行っている。

 

 

 ペルーでは、一九六八年、ファン・ベラスコ将軍のクーデターにより軍事政権が誕生し、一九七九年まで一二年に渡ってペルーの政治を支配している。一方、アメリカに反発し、社会主義を目指す知識人や中等・高等教育を受けた地方のメスティーソの青年らにより「センデロ・ルミノソ(Sendero Luminoso)」が誕生している。その中心人物がアビマエル・グスマンである。グスマンは、文革当時の中国軍幹部に理論的指導を受けたとされている。センデロ・ルミノソは、アメリカを批判すると共に、ソ連や中国、北朝鮮も帝国主義として批判している。グスマンは共産主義を「搾取される者もいない、抑圧される者も抑圧する者もいない、階級も国家もなく、党もない、民主主義もなく、武器も戦争もない、偉大なる調和の社会」と定義している。グスマンの観点によれば、理想社会は所有のない社会、すなわち無の社会ということになる。実際に、彼らが目指しているものは抑圧されているインディオのための社会、インディオを中心とする社会である。ペルーの革命家であるホセ・マリアーテギも、『ペルーの現実解釈のための七試論』において、農民が大多数を占めるペルーでは、都市労働者を主体とするマルクス主義の革命論をそのまま適用することは困難であるとして、ジョルジュ・ソレル的な神話の集団力と農村共同体に残る平等で相互扶助的な生活を結びつけ、農民型共産主義を構想している。このインカ共産主義の伝統を背景に、マオイズムが受容されている。

 

 

  ポル・ポトことサロト・サルが率いる「クメール・ルージュ(Khmer Rouge)」は、一九七五年、ロン・ノル政権を打倒し、カンボジアの実権を掌握する。彼らは文化大革命の毛沢東主義に影響され、それを先鋭化した政策を打ち出す。クメール・ルージュは所有を完全に否定する。所有があること自体が堕落につながる。理論と実践の矛盾など理論が存在するから生じるのであり、実践だけでよい。一切の所有は消滅されなければならない。民主カンボジア政府は、まず、紙幣を廃止し、市場を閉鎖、さらに、外国語、音楽、歌、詩も禁止する。恋愛も一切禁止され、集団結婚が強制される。家族は解体され、子供は五、六歳で親元から引き離され、集団生活をさせられる。すべての成人を「お父さん」・「お母さん」と呼ぶよう教えられる。仏教も禁止され、寺院や仏像は破壊される。高校・大学出身者、行政官、教師、牧師だけでなく、メガネをかけている人や本を持っている人も前政権に毒されているとして処刑されている。子供たちは朝から晩まで野良仕事をさせられる。仕事以外、唯一認められた活動は見せしめの処刑観賞だけである。カンボジア全土に、八〇〇万人を収容できる収容所があり、そこで二〇〇万人が死んでいる。

 

 

Sydney: Forgive me?

Dith Pran: Nothing to forgive you, nothing.

(Roland Joffe “The Killing Fields”)

 

 

戦争が宣伝戦であるとすれば、暴力は宣伝を意味する。それは世界にinvisibleな「孔」を開けることである。暴力は世界を変革するために使われるのではない。むしろ、自己を変えるために用いられるのだ。「プロレタリア階級と革命的人民の、世界を改造する闘争には、次のような任務の実現が含まれている。すなわち客観世界を改造し、また己れの主観世界を改造する──己れの認識能力を改造し、主観世界との関係を改造することである」(毛沢東『実践論』)。暴力は自分たちの存在を喪失させようとしている社会に対する存在の表明である。ジェノサイドや無差別テロは民衆に対する共感よりも民衆に対する反感によって成り立っている。

 

 

 ケ小平は「毛沢東同志は誤りを犯したが、これは偉大な革命家が犯した誤りであり、偉大なマルクス主義者の犯した誤りである」と言っている。「われわれには、批判と自己批判というマルクス=レーニン主義の武器がある。われわれはよくない作風を捨て、すぐれた作風を保つことができる」(毛沢東『中国共産党第七期中央委員会第二回全体会議における報告』)。さらに、「ホラは理想ではない。理想になると、ついそれを目標として身を誤ることにもなる。ホラを嘘の力としながら現実を扱うことこそ、現実主義というものだ」(森毅『「ウソツキクラブ」嘘解説』)。マルクス=レーニン主義は偉大なる「ホラ」であるがゆえに、偉大な「現実主義」であるとケ小平は気づいている。毛沢東主義も同様であろう。ケ小平は革命前を含めると三回失脚し、その度に復権している。毛沢東にしても、一九三〇年前後には党内では反主流派であったし、何度か権力の座を追われ、復活している。つまり、偉大なる「誤り」は偉大なる「現実主義」への最初の一歩なのだ。大いなる「誤り」を犯すのも偉大さの証ということを中国人は当然と認知している。

 

 

 毛沢東は、エドガー・スノーの『革命、そして革命……』によれば、「長い眼で見れば、将来の世代は、ちょうどブルジョア民主主義時代の人々が封建時代の人々よりも広い知識を持っていたように、現在のわれわれよりも広範囲な知識を持つはずである。われわれの判断ではなく、彼らの判断がことを決めるのだ。今日の青年と、その後に続く未来の青年たちは、彼ら自身の価値基準に基づいて、革命の成果を評価するであろう」と語っている。革命の評価も持久の弁証法の下にあるというわけだ。

 

 

黒い瞳の中に 赤い花が咲いて

黒い瞳の中に 黄色い風が吹く

黒い瞳の中に 海の水が揺れて

黒い瞳の中に 白い壁が崩れる

 

おまえはほほえむ

わたしにむかってほほえむ

目が見えないわたしに

 

ふくらんだ指の中に 電話のベルが鳴り

ふくらんだ指の中に ジェット機が墜ちる

 

おまえはうたう

わたしはおまえにむかってうたう

耳がこわれたわたしに

 

おまえはほほえむ

わたしにむかってほほえむ

目が見えないわたしに

(矢野顕子『在広東少年』)

 

 

 中国では、古くから、抜き差しならない事態に陥った場合、貧しい者たちが権力者に対してある武器を使って、異議申し立てをすることがある。その武器は身内の死体である。葬儀をボイコットするストライキをして要求を貫徹させるというものだが、これは現在でも行われている。中国において、死体は社会に邪気を発する忌まわしいものであり、葬式はその危険なものを社会から安全に取り除く重要な儀式である。儀式を正しい手順で行うには、その親族が欠かすべからざる役割を果たす。葬儀を親族がボイコットすると、恐ろしい死体がいつまでも生活の場にとどまることになるので、周囲のものが親族の説得にあたり、葬儀を執り行う代わりに、その要求が達成される。時には、瀕死の重病人の身内を自殺させてその死体を用いたり、行き倒れの身元不明の死体を使ったりするケースもある。

 

 

毛沢東の志向する原始共産制のモデルの一つが人民公社である。人民公社はピエール=ジョセフ・プルードンの地域自治体連合と見てよい。プルードンは所有に代えて、「占有」を提唱する。農民が生産手段を私的に所有することはできないが、農民がその土地を耕作している間は、労働が加わっているから、土地と生産物を「占有」できるというわけだ。毛沢東はプルードンの『所有とは何か』における「財産、それは盗みである」を実行に移す。毛沢東は所有を敵と見なすが、その存在自体を否定しているわけではない。毛沢東の理論と実践の関係を見れば明らかなように、理論は実践によって使われなければ無意味である。毛沢東においては、実際に使われないものは存在していないことと同じである。実践を通じて「共通の言葉」を得るのが認識の過程である以上、私的所有ではなく、他の人々と生産手段を共有し、土地や生産物は占有にならざるを得ないのだ。

 

 

原始共産社会への回帰は、毛沢東主義に限らない。イスラエルで実施されている「キブツ(Kibbutz)」も協同組合的なコミュニティーである。キブツでは、あらゆる財産が共有され労働は共同を基礎として組織される。メンバーはそれぞれ能力に応じて労働し、その見返りとして、必要に応じて食糧、衣類、住居、医療サービスおよびその他の家庭生活のためのサービスを受けられる。食堂、台所、そしてストアはセンターに集められており、学校および子供たちの寄宿舎は共同である。各コミュニティーは代表者会議と全員による総会によって運営されている。

最初のキブツは、一九〇九年に、ティベリアス湖のほとりに建設されている。キブツはシオニズムの中核をなしている。イーディッシュ語を話す初期のユダヤ人移民はそこで共同して働き、土地を灌漑・耕作し、家庭を築いていたが、パレスチナ住民とも共生している。ところが、一九四八年のイスラエル建国以後、国境に沿って多くのキブツが建設されていく。国家の防衛のため、戦略的に配置されたキブツはさらに占領地にも建設され、当然、土地を追われたパレスチナ・ゲリラが包囲を破る「孔」としての攻撃の的となっている。

キブツの人口はイスラエル全体の数パーセントにすぎないが、イスラエルの農業生産を支えるだけでなく、シオニズムのイデオロギー面での主柱として多くの指導者を輩出している。ただ、近年、キブツでの工業化が進み、また農業でも大規模経営化され、労働の形態も本来のキブツのメンバーの自己労働から、外部の労働者の大量雇用へと変わってきている。

 

 

原始共産制が現代社会では見直され、一つのファッションになっている。現代社会において、所有に代わって共有が問題解決の糸口と注目されている。環境問題に早急に対処する目的から、ヨーロッパを中心に、率先して、市民が自動車などの交通手段を共有している。また、ネット社会では、文化を保存するため、ないし情報の公開性・共有性のため、さまざまな知的遺産のアーカイヴが進んでいる。情報は「物」ではないため、所有が成り立たない。現代社会では、このように原始共産制がカタストロフを回避する手段として、積極的に取り入れられている。原始共産制はこうしたファッション性とベンチャー性に基づいて、初めて、存立する。原始共産制への志向がキリング・フィールドを招くわけではない。「孔」の欠落、閉鎖性がそれを呼びこむ。

 

 

 東西冷戦構造の崩壊は毛沢東主義のパロディをアメリカが演じることになる。東西冷戦構造の崩壊はアメリカの勝利を世界に印象づけたが、アメリカが世界を包囲する結果になっている。その事態はアメリカナイゼーション=グローバリゼーションに対する反感を助長し、逆に、アメリカが包囲されているという幻想を招き、ジョージ・W・ブッシュ政権の冒険主義を招いている。同時多発テロに始まる一連の出来事はその顕著な例であろう。認識しにくいinvisibleな包囲の時代だからこそ、「孔」を開ける逃走が必要である。

 今日の解放闘争は抑圧の解放ではない。包囲の解放である。それは包囲に「孔」を開けること、包囲を「フラクタル立体」に読み替えることを意味する。「孔」はinvisibleであり、ゲリラはそれを利用する。解放闘争から連なる革命はゲリラだけでなく、自然成長的な「群」による「孔」の統計力学的変換である。

 

 

 大島渚は、一九九八年四月一七日付『朝日新聞朝刊』の「二十世紀の古典」において、毛沢東について次のように書いている。

 

毛の軍事的天才というのは、ひょっとすると敵をつくることの天才と言うべきであったかもしれない。実に毛こそ、今だれが主要な敵であるかを見分けることの天才であり、その敵の打倒に向かって兵士たちを鼓舞することの天才であった。

 かくて一九四七年中華人民共和国は成立するのである。

しかし、毛沢東の闘いは続いた。朝鮮戦争、台湾をめぐる戦い、ヒマラヤをめぐるインドとの戦い。そしてもっとも頑強な敵は、中国内部の敵と、国際共産主義運動をめぐってのソ連との対立であった。

それらすべての局面において妥協をいっさい許さない毛沢東の立場は文化大革命となって爆発する。確かにその時革命を必要とする国、あるいは民族はいた。彼らは毛語録を振りかざし、歓呼をあげて毛の名を呼んだ。しかし、毛沢東はなぜ、ほとんどすべての革命の同志を敵としてまで二度目の革命をあえてせねばならぬのか。

 

 「すべての革命の同志を敵としてまで」毛沢東が戦っていたのは貧困である。毛沢東の場合、貧困との闘争は、貧困への逃走を通じて、行われる。毛沢東は貧困からの逃走はしない。貧困には貧困でもって向うほかない。「われわれは戦争廃止論者であり、戦争は不要だ。だが、戦争を廃止するには、戦争によるほかない。鉄砲を不要にするには、鉄砲をとるほかない」(毛沢東『戦争と戦略の問題』)。毛沢東の実践も矛盾もここにある。貧困は矛盾である。そこを根拠地とするほかない。大長征は貧困への逃走であり、農村による都市の包囲は、都市にも貧困という矛盾が存在する以上、貧困によって富裕を包囲することを意味する。

 

 

 民衆は、たとえ「誤り」があったとしても、毛沢東を受け入れ続けている。「毛沢東」は民衆の集団的匿名である。「革命戦争は民衆の戦争である。民衆を動員して、はじめて戦争をすすめることができる。民衆の能力にたよって、はじめて戦争をすすめることができる」(毛沢東『民衆の生活に関心をよせ、活動方法を注意せよ』)。毛沢東は、民衆に訴えられない場面では、行政機構や党における権力闘争で敗北する。民衆は数えられないため、貧しい存在である。けれども、貧しさゆえに、民衆は恐るべき力を持っている。「中国の六億の人口が持つ著しい特徴は、一に貧窮、二に空白ということである。これらは見たところ悪いようだが、実際にはよいことである。貧窮であれば、変革しようと思い、行動を起こそうとし、革命をやろうとする」(毛沢東『ある協同組合を紹介する』)

 毛沢東は貧困と戦うが、それは富裕になるためではない。貧困は、拝金主義が示している通り、富裕さによって癒されるわけではない。豊かさは経済的・物質的な意味だけでなく、精神的な意味においても適用される。精神的な豊かさもブルジョア的である。貧困との闘争は貧困の内部にありつつも、そこに「孔」を開けることを意味する。「プロレタリア教授」は貧困である。しかし、だからこそ革命性を持っている。毛沢東の貧困政策は人民を裕福にするものではないし、貧しさに耐えることを要求しているわけでもない。貧しさへ、はるかなる貧しさへと逃げていくことである。

毛沢東の著作には貧困さがある。彼は知的に豊かになろうとは思っていない。『毛沢東語録』は貧困である。一切の文脈から切り離され、たんなるスローガンが羅列している。紅衛兵は、「反復学習・反復運用」として、ただそれを唱える。『毛沢東語録』を金科玉条にした文化大革命は文化的貧困さへの逃走である。貧困への逃走はロマンティシズムでも、ヒロイズムでもない。持久の弁証法はそもそもそういうものだからだ。それは一つのガルゲンフモールである。

 

 

 以上述べたことは、何ら新鮮な意見ではなく、創造発明でもなく、すでに多年に渡って、非常に多くの人々がこのようにやってきたのです。ただまだ普及していないにすぎません。

(毛沢東『一九六六年五月十日付林彪宛書簡』)

 

 

 一九九〇年代後半から顕著になった中国の経済発展には、皮肉なことに、破壊を尽くした文革の影響を否定できない。歴史を見ると、産業革命当時のブルジョアジーがそうだったように、近代化の際に、伝統からの切断を極端に押し進めた運動は、以降の世代に身軽さを与え、それにとらわれないバイタリティあふれる活動を可能にする。過去との絶交は、後発世代には、伝統とのカジュアルな付き合いもうまくいく。

 

 

 江沢民国家主席は、二〇〇〇年二月、「三つの代表論」を発表する。それは、共産党が社会の先進的な生産力の発展要求、先進的な文化の前進方向、最も広範な人民の三つを代表しなければならないという主張である。これに基づき、二〇〇一年七月、主席は、中国共産党創立八〇周年記念講話において、私営企業主、すなわち資本家の入党を承認している。共産党は商工会議所になったというわけだ。さらに、翌年の第一六回全国代表大会で党規約が改訂される。中国共産党は労働者階級の前衛であると同時に、中国人民と中華民族の前衛であると規定されている。中国共産党はイデオロギー政党である。この変更は同党のイデオロギーが共産主義ではなく、ナショナリズムだということを意味する。もはや中国は事実上だけでなく、公式上も社会主義体制の国家ではない。階級政党を棄て、国民政党と変わった中国共産党は「中国国民党」へと改称されてもおかしくないほどである。

 しかし、文革の再燃を恐れる中国共産党が下からの改革を受け入れることには慎重で、上からの改革の路線を堅持するつもりでいる。中国での「パックス・コミュニスタ(pax comunista)」は、当分、続くだろう。

 

 

 文化放送のアナウンサー野村邦丸は、『野村邦丸の気分はZUNZUN!』の中で、彼の娘から次のように尋ねられたことを紹介している。

 

娘 ねえ、江沢民って中国の偉い人でしょう?

邦丸 そうだよ。

娘 じゃあ、江沢民はいつ毛沢東になるの?

邦丸 は?

娘 だって、中国の人って、偉くなるとみんな毛沢東になるんでしょう?

 

そう、その通り! 文化大革命は青少年が推進したし、クメール・ルージュの民衆への監視役も子供だったけれど、こう言えるのも子供ならではだ。「世界はきみたちのものだ。またわたしたちのものだ。だが、結局、きみたちのものだ」(毛沢東『モスクワにおいて中国人留学生・実習生に会った際の談話』)。間違いない! 「中国の人って、偉くなるとみんな毛沢東になる」んだよ!毛主席万歳!

 

 

たしかに革命は正しい。しかし革命政府はみんな悪い政府だった。

革命は正しい。ほんの口先で言ってみるだけですけど。

(森毅『改革の季節』)

〈了〉

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